エジプト古王国
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エジプト古王国(-こおうこく 紀元前2686年頃 - 紀元前2185年前後)は、古代エジプト史における時代区分。通常エジプト第3王朝からエジプト第6王朝までの時代を古王国と呼ぶ。
目次 |
概略
サナケト王が、恐らくはエジプト第2王朝の王女を娶って紀元前2686年頃に王となり、エジプト第3王朝が開かれたことを以って古王国時代のはじまりとされる。この時代は古代エジプトを象徴する建造物であるピラミッドが盛んに建造された時代であることから、ピラミッド時代とも呼ばれ、古代エジプトにおける政治、社会、宗教等の基本形が完成された時代であった。大雑把にはエジプトにおける中央集権体制の完成から崩壊までの時代とも言える。
歴代のエジプト王による長期の王権強化努力が実り、古王国時代には強力な中央集権体制が成立した。これを背景に第3王朝第2代のジェセル王によってサッカラに初めてピラミッドが建設された(ジェセル王の階段ピラミッド)。以後、歴代のエジプト王達は巨大なピラミッドを次々と造営していく。特にその絶頂期を象徴するギザの三大ピラミッドを建てたエジプト第4王朝のクフ、カフラー、メンカウラーの三名はピラミッド建設者の代名詞的存在となっている。
ピラミッド建設の政治的、宗教的意義は第4王朝時代後半に入ると減退し、クフ王の大ピラミッドを頂点としてピラミッド建設に傾けられる労力は縮小された。変わって第5王朝時代には太陽神ラーと王の一体性、ひいては王の正統性を示す太陽神殿が次々と建設されるようになった。また第3から第6王朝までの間、アジア(パレスチナ)、リビア、ヌビアといったエジプトの周辺地域に活発な征服活動が行われエジプトの支配地が拡大された。対外交易も活発でありアフリカ内陸部やソマリア地方とも交流が持たれた。
こうした古王国の繁栄も第6王朝時代後半には肥大した官僚組織や勢力を増大した各地の州侯によって齎された中央集権の崩壊によって失われた。第6王朝最後の女王とされるニトケルティ(ニトクリス)[1]の治世を最後にエジプトの統一権力は瓦解し、第1中間期と呼ばれる分裂の時代に入った。
王朝の交代
古王国時代は通常第3から第6までの4つの王朝が順次交代したとされる。しかしこれは戦争や大規模な混乱の末の交代というようなものとはかなり異なったものであった。恐らく第2王朝と第3王朝の交代においても同様であったが、新王朝の最初の王とされる王は例外無く[2]前王朝の王族の娘を妻とすることで血統的正統性を確保しており、また第4王朝の初代王スネフェルや第5王朝の初代王ウセルカフのように自身が前王朝の王族に連なる血筋を有する者が多い。後代のエジプト人がこれを王家の交代と見なしたのはなぜなのかについては諸説ある。
1つ重要な点は、古代エジプトの王位継承は女性を媒介にして行われていた点である。王位継承権は王族の女性にあり、継承権を持つ女性と結婚した男がエジプト王となるのである。このため嫡流から離れた王族の男性が、政治混乱の末に王女を娶って王位を得た場合にこれを王家の交代と考えたのかもしれない。しかし正確にはよくわかっていないのが現状である。ともかくも、基本的に第3王朝時代(或いは初期王朝時代の第1王朝時代)から第6王朝時代に至る王朝の交代劇は基本的には政府内における事件であって、全エジプトを揺るがすような戦争などによって交代がなされたわけではなく、エジプト世界は長期にわたる統一権力の下に置かれ続けていたのである。
古王国政治の変遷
古王国時代以前、初期王朝時代からエジプトの歴代王は王権強化に邁進してきた。その手段として行政組織も整備されていった。
行政組織の整備
古代エジプトの地方行政州であるノモス[3]に関する記録がはじめて登場するのはエジプト第3王朝時代である。ノモスは、その原型を統一王朝時代以前から存在する地域共同体か、初期王朝時代に設置された行政州かのいずれかに持つと考えられており、古王国時代より前から存在すると考えられているが、古王国時代になってそれについての史料が登場することは行政州としてのノモスの整備が進んだことを示すと考えられる。第3王朝時代の記録には「長官」、「耕地指揮官」などの称号があったことが記録にある。初期段階では恐らく、王族や王の任命による州侯が定期的にノモスを巡察して収穫状況などを把握し、徴税を行った。第3王朝時代の行政組織はまだあまり体系だった組織ではなく、その国家機構は未熟であったといわれている。
第4王朝時代には国家機構は大幅に整備された。これは国内支配を安定させることはもとより、増大するピラミッド建設に対応するための資源、労働職の集配機能を持った行政組織の必要性が高まっていたことに対応したものであった。建築活動を統括する労働長官(王の全ての労働の長官)は、その他の部門よりも上位とされており、建築活動が重要視されたことの証明とされる。第4王朝において上位官職は基本的に王族の独占であった。特に第4王朝において行政組織の最高位であった宰相職は、初代のスネフェル王の王子ネフェルマートが就任して以来、慣習的に王子が担当し、労働長官職は宰相となった王子が兼任した。これは王への権力集中の証であるが、一方では王族から上級職にあたる人員を確保できるという事実は行政組織の規模の小ささと単純さを示すものでもあった。とはいえ第4王朝初代の王スネフェル以来整備されたこの行政組織によって第4王朝時代には空前絶後の巨大ピラミッド建設が可能となったのである。
行政組織の整備と肥大化
第5王朝時代に入ると上位官職の王族独占は終焉を迎え、最上位たる宰相を含めた地位に非王族の有力者が進出した。この人事的な変化とクフ王以後のピラミッドの縮小傾向を重ねて、王権が弱体化していったという説があるが今日では有力ではない。むしろ行政組織の体系的な整備と拡大が進行したことで、もはや王族から必要な人員を確保するのは非現実的であり、王族外の有能な人材の抜擢は必然的な流れであった。司法、農政、書記、財政といった主要な行政部門が整備されるのもこの時期である。一方で宰相が複数置かれるようになり、1人の役人に権力が集中することを防止しようとした形跡も見られる。地方行政においては「上エジプト監督官」、「要塞監督官」、「新都市監督官」などの官職が登場するようになり、また第5王朝時代(紀元前27世紀 - 紀元前26世紀)頃から、州侯が管轄するノモスに居住し、地位を世襲する動きが見られるようになった。こうした州侯は次第に王墓の周辺ではなく自らの任地に墓を造営するようになった。
しかしこうして複雑化、細分化する行政組織に比して税収の増加は次第に頭打ちとなっていた。行政組織の複雑化はとりもなおさず役人の増加に直結する。役人に対しては王領地の租借や葬祭用の供物の提供などいくつかの方法で給与が与えられたが、人数の増加に伴い、土地であれ葬祭用の供物であれ、一人当たりに支払われる報酬は減少し、役人の生活状態は悪化した。第5王朝の末期から第6王朝にかけて、おそらく税収の増加を目指した行政改革が繰り返し行われているが十分な効果はあがらなかったようである。このため、ピラミッド都市管理者などへ各地の役人を任じたり、ピラミッド都市等の付属領地を褒賞として与える方策が採られるようになった。これによってピラミッド複合体を通じて供給される供物などが中央政府の役人や州侯等に開放される道が開けた。しかし、有力な州侯や役人はこうした官職をいくつも兼任し、次第に王を上回る勢力を持つものも形成されていった。そして第6王朝の王ペピ2世の極めて長期にわたる在位の間に、王の指導力や地方に対する統制力は著しく弱体化することになる。
古王国時代の遺構
ピラミッド
ピラミッドの建設は古王国時代の極めて重要な特徴の一つである。一般的にマスタバと呼ばれる大型の墳墓から次第に階段ピラミッドが発達し、やがて直線のラインを持った真正ピラミッドが誕生したとされる。ピラミッドの建設目的やその手法、階段ピラミッドと真正ピラミッドの取り扱い方については膨大な量の研究が存在し、日本の吉村作治のように上記のようなピラミッドの発達過程を想定することに異説を唱える学者も数多い[4]が、ここではそうした問題には立ち入らない。
上で述べたような整備された行政組織を背景に古王国時代には各地にピラミッドが建設されたが、ピラミッドは単独の建造物ではなく、通常ピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)と呼ばれる付属施設(神殿や倉庫など)が存在し、建造した王の死後も葬祭は継続して行われた。ピラミッド複合体で行われる葬祭、祭礼は時代を追うごとに重要視される傾向があった。
死後も葬祭儀礼を継続するという行為は、古代エジプトにおいて人間は死後もその霊(カー)が生前と同じく食料を必要とするという発想があったことに由来する。この死者への食料の供給は遺族の義務であったが、次第に神官が代行するのが一般化した。ピラミッド複合体の葬祭儀礼もこの延長上にあるものである。
ピラミッドの詳細についてはピラミッド及び、各ピラミッドの個別項目を参照
この時代に建設されたピラミッドは現在でも数多く残っている。主要なものは以下の通りである。
- 第3王朝
- ジェセル王の階段ピラミッド(サッカラ)
- セケムケト王の未完成ピラミッド(サッカラ)
- 重層ピラミッド(ザウィエト・エル=アリアン)
他にジェセル王のものと考えられる小型のピラミッドが南からエレファンティン、エドフ、ヒエラコンポリス、オンボス、アビュドス、ザウィエト・エル=アリアン、セイラ、そしてデルタ地帯のアトリビスにいたるエジプト全域から発見されている。
- 第4王朝
- スネフェル王の屈折ピラミッド(ダハシュール)
- スネフェル王の赤いピラミッド(ダハシュール)
- スネフェル王の異形ピラミッド(メイドゥム)
- クフ王の大ピラミッド(ギザ)
- ジェドエフラー王のピラミッド(未完成 アブ・ロアシュ)
- カフラー王のピラミッド(ギザ)
- メンカウラー王のピラミッド(ギザ)
- 第5王朝
- ウセルカフ王のピラミッド(サッカラ)
- サフラー王のピラミッド(アブシル)
- ネフェルイルカラー王のピラミッド(アブシル)
- ニウセルラー王のピラミッド(アブシル)
- ウナス王のピラミッド(サッカラ)
- 第6王朝
- テティ王のピラミッド(サッカラ)
- メンネフェル・ペピ(サッカラ)
- メルエンラー1世のピラミッド(サッカラ)
- ペピ2世のピラミッド(サッカラ)
太陽神殿
太陽神殿は、第5王朝時代に盛んに作られた太陽神ラーを祭る神殿である。ピラミッド複合体に似た付属施設を持ち、中央にはマスタバに似た基壇がありその上に巨大なオベリスクが建てられた。この構成はラー信仰の本拠地であったヘリオポリスのラー神殿の神聖物である高い砂とベンベン石を模したものであると考えられる。
太陽神殿の建設と意義についてはエジプト第5王朝の項目を参照
太陽神殿は当時の記録から少なくても6箇所は建立されたことがわかっているが、位置が確認されて発掘調査が行われたのは2箇所だけである。他の4箇所については現在、位置すらわかっていない。
- ウセルカフ王の太陽神殿(アブシル)
- ニウセルラー王の太陽神殿(アブグラーブ)
ニウセルラー王の太陽神殿に建てられたオベリスクは、高さが56メートルもあったと推定されている。
スフィンクス
カフラー王のピラミッド複合体に含まれるスフィンクスは、エジプトの彫刻作品の中で最もよく知られたものである。スフィンクスの建設者はカフラーとするのが有力説であるが、異説も多く見られる。しかし一部で言われるようなピラミッドよりも数千年以上前のものであるとする説は根拠薄弱であり、学界において積極的な考慮の対象とはなっていない。
スフィンクスに関する詳細はスフィンクスの項目を参照
注
- ^ 彼女の即位については同時代の証拠はない。詳細はエジプト第6王朝を参照。
- ^ 第6王朝の初代王テティに関しては彼の妻イプト1世が第5王朝のウナス王の娘であったとする説が有力であるが決定的な証拠は無い。
- ^ ノモスとはギリシア語に由来する語である。古代エジプト語ではセバトと呼ばれたが、現在一般にノモスという呼称で知られている。しかしセバトと呼ぶ例も増加傾向にある
- ^ 吉村氏の階段ピラミッドと真正ピラミッドに対する見解は、参考文献『吉村作治の古代エジプト講義録 上』を参照。
参考文献
- ジャック・フィネガン著、三笠宮崇仁訳『考古学から見た古代オリエント史』岩波書店、1983年。
- 高橋正男『年表 古代オリエント史』時事通信社、1993年。
- 吉村作治『吉村作治の古代エジプト講義録 上』講談社、1996年。
- 近藤二郎『世界の考古学4 エジプトの考古学』同成社、1997年。
- 大貫良夫他『世界の歴史1 人類の起源と古代オリエント』中央公論新社、1998年。
- 前川和也他『岩波講座 世界歴史2』岩波書店、1998年。
- ピーター・クレイトン著、吉村作治監修、藤沢邦子訳、『ファラオ歴代誌』、1999年。
- 三笠宮崇仁『文明のあけぼの 古代オリエントの世界』集英社、2002年。
- 初期王権編纂委員会『古代王権の誕生3 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編』角川書店、2003年。
関連項目